使徒2章
2:1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
五旬節は、種無しパンの祭りの最後の安息日から数えて五十日です。
レビ記
23:15 あなたがたは、安息日の翌日から、奉献物の束を持って行った日から満七週間を数える。
23:16 七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主に献げる。
23:17 あなたがたの住まいから、十分の二エパの小麦粉にパン種を入れて焼いたものを二つ、奉献物としてのパンとして持って行く。これは主への初物である。
23:18 そのパンと一緒に、主への全焼のささげ物として、傷のない一歳の雄の子羊七匹、若い雄牛一頭、雄羊二匹、また、主への食物のささげ物、芳ばしい香りとして、彼らの穀物のささげ物と注ぎのささげ物とを献げる。
23:19 また、雄やぎ一匹を罪のきよめのささげ物とし、一歳の雄の子羊二匹を交わりのいけにえとする。
23:20 祭司はこれら二匹の雄の子羊を、初穂のパンと一緒に、奉献物として主の前で揺り動かす。これらは主の聖なるものであり、祭司のものとなる。
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その時、初穂のパンとして捧げられるパンは、体が贖われていない人が初穂として証しを担うことを表しています。二個は、証しの比喩です。
ローマ
8:23 それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。
テサロニケ第二
2:13 しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。
ヤコブ
1:18 この父が私たちを、いわば被造物の初穂にするために、みこころのままに真理のことばをもって生んでくださいました。
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今日、信者は、被造物の初穂とされています。そして、御霊の初穂で、御霊によって新しく生まれた者です。また、御霊によっ聖別されています。
2:2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
その時、激しい風のような響きが起こりました。これは、聖霊がその時臨まれたことのしるしです。風は、聖霊の比喩でもあります。風の音を聞かせることで、聖霊が臨まれたことを証ししています。その音は、家全体に響き渡りました。
なお、これは、音が響き渡ったのであって、「聖霊がその家を満たしたしたので、全員が聖霊に与った」という説明は当たりません。聖霊は、霊であって、物理的空間を満たすことに意味はありません。記述されている言葉も、響き渡ったと、音のことを説明しているだけです。
2:3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
2:4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
そして、皆が聖霊に満たされて、他国のいろいろな言葉を話し出しました。これは、異言と言われる奇跡の賜物です。これが聖霊の働きであることを示すために、炎のような舌が現れました。舌は、言葉を話すことを表しています。炎のように先が分かれていることで、異なる言葉を話すことが意味されています。明らかなしるしをもって聖霊が臨まれたのです。
なお、これが聖霊のバプテスマであり、「そのバプテスマは、一度きりである」という考えについて、それを説明する根拠は、ここには記されていません。聖霊のバプテスマは、聖霊に浸されることであり、聖霊の支配の中に入ることを表していますが、その点では、聖霊に満たされたことは明確に記されていますので、その事が起こりました。しかし、そのことは、個々の信者の経験です。このことが歴史上ただ一度の出来事であるということは言えません。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、
2:6 この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
2:7 彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。
2:8 それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
2:9 私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、
2:10 フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、
2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
2:12 人々はみな驚き当惑して、「いったい、これはどうしたことか」と言い合った。
2:13 だが、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、嘲る者たちもいた。
この出来事を見聞きしたのは、エルサレムにいた敬虔なユダヤ人たちです。使徒たちが語っていたのは、神の大きな御業です。それぞれの国の言葉で話していました。敬虔な人々には、それが神の業についての証しであることが分かったのです。それは、驚きと当惑をもって受け止められました。それが奇跡であることが分かったのです。
その一方で、ぶどう酒に酔っていると言う者がいました。彼らは、ただ奇跡を否定したいだけの人です。他の人は、その内容が神の大きな御業であることを認めています。もし、酔っているならば、まともには語れないのです。酔っているかどうかの判断もできない、あるいはしようとしないいい加減な人たちであるのです。
2:14 ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々に語りかけた。「ユダヤの皆さん、ならびにエルサレムに住むすべての皆さん、あなたがたにこのことを知っていただきたい。私のことばに耳を傾けていただきたい。
この時、ペテロは、皆の代表として一人で語りだしました。その時、十一人とともに立ちました。他の使徒たちは声を出しませんが、ともに証しを担っていたのです。
このことは、教会における宣教についての教訓を教えています。御言葉を取り次ぐ者は一人でも、ともに証しを担うのは、同席している信者全員です。男も女もともに担います。それで、席に着いている女は、被り物を被ります。
コリント第一
11:5 しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。
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女は、教会では、語ることを許されていません。しかし、一人の兄弟が語るとき、ともに証しを担う者として被り物を被るのです。
2:15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが思っているように酔っているのではありません。
ペテロは、まず、酔っていないことを明確にしました。
2:16 これは、預言者ヨエルによって語られたことです。
2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。
2:18 その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する。
2:19 また、わたしは上は天に不思議を、下は地にしるしを現れさせる。それは血と火と立ち上る煙。
2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。
2:21 しかし、主の御名を呼び求める者はみな救われる。』
彼は、ヨエル書の言葉を引用して、今見ていることは、その預言の成就であることを説明しました。
終わりの日は、直接的には、いわゆる千年王国時代です。預言の内容もいわゆる艱難時代の後に主の栄光が現れ、艱難時代に主の名を呼んだ者たちがみな救われるのです。その人々に主の霊が注がれ、息子、娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見ます。これらは、聖霊が与えられたことのしるしです。そして、彼らは預言するのです。
弟子たちが異言によって預言したことは、聖霊が注がれたしるしなのです。これは、これから語るペテロの言葉も、神の預言であることを示したのです。
しかし、直接的には、いわゆる千年王国に実現することが、いわゆる新約時代に実現したのです。新約時代は、預言では隠されていました。しかし、イエス様が王としておいでなられたことは実現したのであり、聖霊が注がれることも実現したのです。ペテロは、ヨエル書の預言を引用しましたが、ここに引用した部分は、聖霊が与えられることとともに、イエス様が人としておいでになられた時に実現したことであることを証ししているのです。
まず、十九節の「血」は、イエス様が人となられておいでになられたことです。神の御子が人となられました。この方は、ヨハネが証ししたように、「独り子の御子の栄光を現された」のです。
「火」は、神の評価です。神が喜ばれ愛される方であることが証しされました。
「煙」は、神の裁きです。それは、十字架の裁きです。罪のために、御子を死に渡されました。いずれも、偉大なしるしです。
「上は天に不思議、下は地にしるしを現させる」ことは、二十二節に説明されています。「神は、。。。力ある業と不思議としるしを行い」と証ししましたが、これが、地に現されたしるしです。
「天に不思議」については、太陽が闇になったことです。これは、イエス様が十字架に上げられた時に起こりました。それとともに、これは、比喩になっていて、神がイエス様から顔を隠されたことを表しています。そのようにして、イエス様に対して裁きを下されたのです。「月が血に変わる」ことは、イエス様が血を流し死なれたことを表しています。光としての御言葉は、父なる神から放たれ、月としてのイエス様は、その光を受けて輝きを現されます。太陽が闇になった時、イエス様は、裁きを受け、命を捨てたのです。十字架の御業は、神が救いを用意された明らかな、偉大なしるしなのです。
それで、主の名を呼ぶ者は、誰でも救われるのです。永遠の滅びから救い、永遠の祝福を与えるのです。
2:22 イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。
そのうえで、彼は、イエス様のことを紹介しました。この方こそ信ずべき方であることを示すためです。ナザレ人イエスと紹介し、ユダヤ人が蔑んだ人です。その人を神が証しされたのです。不思議と力ある業によって証しされました。証しの具体的な内容は、ここには示されていませんが、これによりイエス様は、主であり、キリストであることが証しされています。
2:23 神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。
その主であり、キリストである方をユダヤ人が十字架に追いやったことを指摘しました。このようなことは、ユダヤ人にとっては、聞きたくない言葉でした。しかし、ペテロがこのことを取り上げるのは、この問題の解決なくしてユダヤ人に救いはないからです。この話の終わりの三十六節でも、同じことを語っています。ですから、これがペテロの話の主題なのです。
ペテロは、その手紙でも理論的に話を構成します。ここでも、初めに結論を示してから話を始めています。それによって、何を語っているのかを明確にしています。
ユダヤ人がイエス様をローマの総督に引き渡し、十字架につけ、殺したたことは、神の計画と予知によります。ユダヤ人は、キリストを拒み、死に至らしめた責任を問われます。
・「予知」→予知。前もっての決定。
2:24 しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。(なぜなら)この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
しかし、この方は死にましたが、よみがえらされました。この方が死に繋がれていることはあり得ないからです。
2:25 ダビデは、この方について次のように言っています。『私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることはありません。
2:26 それゆえ、私の心は喜び、私の舌は喜びにあふれます。私の身も、望みの中に住まいます。
2:27 あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。
2:28 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前で、私を喜びで満たしてくださいます。』
ダビデは、いつも主の前に出ていました。主がともにおられるので揺るぐことがないのです。それで、彼は喜び、彼の身は、望みの中に住まうのです。すなわち、御国の報いを望みとしていつまでも歩み続けるのです。住まうことは、その状態が継続する表現です。
たましいをよみに捨て置かないことは、彼が一度死んでよみから引き上げられることを言っているわけではありません。これは、比喩になっていて、神の御言葉に従う座であるたましいは、よみが表す滅びの状態に置かれることはないということです。たましいの滅びは、神の前に死んだ状態のことを表現していて、御心に従わない、実を結ばない状態です。報いもありません。それが滅びです。そのような躓きの状態に置かないのです。
滅びと対比して、彼は、命の道を知らされ、そこに歩んでいるのです。
2:29 兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。
2:30 彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。
2:31 それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。
ですから、詩篇では、ダビデの歩みに関する詩になっていますが、預言としては、「たましいがよみに捨て置かれない」という部分が直接的な表現として取り上げられていて、「彼はよみに捨て置かれず」と言い換えています。体が死んでたましいがよみに捨て置かれることがないことを表しています。
また、「あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」の部分は、「そのからだは朽ちて滅びることがない」と言い換えられています。これらの言い換えは、預言の説明です。
ペテロは、詩篇を引用して説明しようとしたことは、この方が死に繋がれていることがあり得ないことの理由を示しているのです。それは、神にある敬虔な者に滅びを見せないと記されているように、イエス様が敬虔な方であるからです。
2:32 このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
イエス様がよみがえらされることは、預言されていたことです。ペテロは、その目撃者して証言しているのです。
2:33 ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。
皆とともに立って証しした話の結論として、皆が見て、耳にしていることは、聖霊が注がれて、聖霊が業をなしていることです。それを説明しました。
2:34 ダビデが天に上ったのではありません。彼自身こう言っています。『主は、私の主に言われた。あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。
2:35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。』
そして、天に上げられたことについて、それは、ダビデのことではなく、イエス様のことであり、キリストのことであると。それは、詩篇二篇から説明し、ダビデが、「私の主」と呼ぶ方が神の右の座に着いたのであり、ダビデ自身ではないことを説明しまた。
そして、その方はやがてその敵を足台にする時が来るのです。
詩篇二篇に記されていることは、イエス様に関する預言であり、御子と記されている方は、キリストであるのです。
2:36 ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
ペテロは、「イスラエルの全家」と呼びかけ、特定の指導者だけでなく、すべてのイスラエルの責任としてこのことを示しています。彼らは、神が主ともキリストともされた方を十字架につけたのです。
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
聞いた人たちは、心を刺されました。ペテロの言葉をその通りであるとして受け入れたのです。それで、どうしたらよいでしょうかと尋ねました。
2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
ペテロは、罪が赦される方法について示しました。まず、悔い改めることです。これは、考えを変えるという意味で、悔いる意味はありません。今まで、神が遣わしたキリストを拒んでいた生き方をやめるのです。そして、証しとしてバプテスマを受けるのです。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
ここでは、聖霊を受けることがバプテスマの結果として示されています。今日、信じたときに聖霊を与えられるのとは異なります。これは、当時のユダヤ人に特有のことです。そのバプテスマは、罪を赦されるためのものです。イエス・キリストの名によるバプテスマですから、イエス様がキリストであることを認めて、この方に主として従う告白が含まれています。ユダヤ人は、神の子キリストを十字架につけた罪があるのです。それは、イスラエル全体の罪です。ですから、彼らは、イエス様がキリストであることを公に認め、この方に従うことを公に表明することで、キリストを十字架につけた罪を赦されるのです。さらに言うならば、もはやキリストを十字架に掛けたイスラエルの仲間ではないことの表明でもあるのです。その罪が赦された時、初めて聖霊が与えられるのです。彼らは、バプテスマによって信仰を表明しなければ、罪を赦されないのです。
・「悔い改める」→考えを変える。
2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
この約束は、話の主題でもある聖霊が与えられることです。彼らにもその子にも、神に召されたすべての人に与えられます。
2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
ペテロは、「この曲がった時代から救われなさい」と呼びかけましたが、キリストを拒むこの時代の人々と仲間にならないで、救われなさいと勧めたのです。
2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
バプテスマを受けたのは、神の言葉を受け入れた人々です。仲間に加えられました。同じ信仰に歩む者たちとなったのです。
2:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
彼らは、いつも、使徒たちの教えを堅く守り、御心を行うことにおいて一つとなり、パンを裂き、祈りをしていました。
・「交わり」→御心を行うことにおいて一つになること。ともに話をしたりお茶や食事を共にすることではない。
2:43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
すべての人に恐れが生じていました。そして、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われました。人々に恐れが生じたことと無関係ではありませんでした。イスラエルの戦いにおいて、アカン一人の罪はイスラエルに敗北をもたらしました。主の働きのためには、すべての人に恐れがなければなりません。自分ひとり関わりないことと考えることは、教会の働きを無力とします。
2:44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
2:45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
そして、教会が一つになっていたことが繰り返し記述されています。
一切の物を共有していました。それぞれの財産や所有物を売っては、必要に応じて共有していました。必ずそうしたということではなく、必要に応じてそうしていました。貧しい者たちもいたのです。
2:46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
2:47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
そして、心を一つにしていました。毎日宮に集まり、家々でパンを裂きました。喜びと真心をもって食事を共にしました。これは、文字通りの交わりです。イエス様は、取税人や罪びととともに食事をしました。それは、彼らの心を開くためです。その人たちを受け入れていることを表します。そのように、互いを尊び、受け入れたのです。そして、神を賛美しました。